2015年3月29日日曜日

先輩、もう呑めません! 『神々のたそがれ』

『神々のたそがれ』(2013年/アレクセイ・ゲルマン監督)
【あらすじ】
とある惑星で神様になったんですけど、正直しんどいです…

構想35年、製作期間15年、上映時間177分、巨匠アレクセイ・ゲルマン監督によるトンデモ映画がついに上映!
大好きな作家兼ミュージシャンの町田康さんと中原昌也さん(偶然お二方とも同じ職業)のトークショー付き上映に参戦して参りました。

結論、ぐっちゃぐちゃ映画の大傑作でした。

何がぐちゃぐちゃって、もう画面に映るモノ全てがぐちゃぐちゃなんですよ。
雨はザーザー降ってるし、霧はモヤモヤ出てるし、地面は泥まみれだわ、血は出るわ、生卵割るわ、スープ飲むわ、唾吐きまくるわ、おしっこするわ…おいお前ら、きったねえよ!

もはや177分間、画面に映るありとあらゆる総てが異様にエネルギッシュな本作なのですが、私はとにかく撮影が凄まじいなと感じました。
いや、全く想像が出来ません、どうやって撮影したのか。

本作の撮影方法としましては、主人公の行動を追い駆け回る「架空の撮影クルー」のような視点でキャメラを回し続けているんです。
だから画面に映る人々は、時たま「カメラ目線」をかましてきます。(実に映画的な瞬間です)
やがて、その過程を通して、もはや本作がフィクションであることすら忘却してしまう感覚が到来。
観客はまるで、本当に異星のドキュメンタリーを見ているかのような、不思議な錯覚に陥るに至るのです。
文献を拝読すると、ゲルマン監督は役者の配置や動きを徹底的に指導したらしいのですが…いや、もはや演出の跡が全然見られないのですが…ってか分からん、何が演出で、何が芝居なのか。
もうね、きったない人たちが、いえーーーい!とダブル・ピースする勢いでキャメラに突進して来るんですよ(笑)
俺も俺もー!みたいな感じで、被写体の方から、どんどんキャメラに迫って来る。
コレ、もはや「動線」のハナシとか、そう言った通常の映画作りの概念では語れない撮影だったのではないかと思いまして。
画面上の凄まじき情報量も、溢れ出るエネルギーも前代未聞。
こんなパワーを生み出せるのは、世界中の映画史を眺めても、恐らくはゲルマン監督ただ一人でしょう。

余談ですが、私は本作をショット単位で見た際に、黒澤明の影響を感じざるを得ませんでした。
と言うのも、雨+ぬかるんだ地面+馬なんて公式を出されると、そりゃあイコール『七人の侍』やんけ!、と答えるしかありません。
弓矢がグサグサーって刺さってるのは、『蜘蛛巣城』の影響カシラ?なんて思ったりもしました。
実際、ゲルマン監督はキューブリックやタランティーノのことが大嫌いだったみたいですが(笑)、最も尊敬していた監督というのが黒澤明だったらしいです。
しかし、もはや世界のクロサワもってしても、そのコネクションを引き合いに容易に語ることがはばかれる、『神々のたそがれ』はそんな唯一無二の怪物フィルムでございます。

本作を鑑賞している際の感覚としましては、「新宿ゴールデン街で先輩と呑み始めたら、先輩がべろんべろんに酔っ払い始めて、めちゃくちゃ泥酔しながら暴れまくり、そのまま呑み屋のハシゴに無理やり付き合わされて、店先で更に頭のおかしな人たちと出会い、身体も脳も肝臓もカオスな領域へと達して、もはや意味不明な会話に意味不明に笑いつつ、朝までオールさせられる」状況とほぼ同じです。
って、なんだその状況!(笑)

これは皮肉でも何でも無くて、この映画は鑑賞後、とにっかく疲労感が半端ないんですよ(笑)
いや、もちろん退屈するような場面は一瞬も無かったですし、だからツマランとか、そういう次元のハナシをしているのではありません。
要するに、観る側も最大限のやる気と体力が必要とされるワケなんですね。
私もレッドブルをグビグビ飲みながら(笑)、全身全霊で本作と対峙しましたけれど、それ同等の、いやそれ以上の体験が出来たことは、ここに断言致します。

『神々のたそがれ』の地獄めぐりは、言い換えれば「酔っ払った先輩に無理やり連れ回されている感覚(by.中原昌也さん)」に本当に近いのですけれど、それでも呑み終った後「トンデモない一夜だったけど、トンデモなく楽しかったなぁ」という印象の方が強い、まさにそういう映画なんです。
とは言え、連れ回されてる間はずっとこう言ってましたけど。
「先輩、もう呑めません!」
「バーロウ!お楽しみはこれからだ!」と、どんどん酒を注いでくる先輩…殺す気かっ!
いや、ホントにそんな映画なんですって(笑)

本作に関しましては、既に様々な論評が提示されていますし、シネフィルな皆さまが大変鋭くタメになる評論をアチラコチラで書かれていらっしゃいます。
ただ、私が言いたいのは、本作はそうしたシネフィル・イメージから思われがちな、お高くとまった芸術映画などでは無いということです。
もちろん、観る人を選ぶ映画なのは確かですけれど、映画を体感する立場に徹する上では、ビギナーだろうがクラスタだろうがシネフィルだろうが、もはやそんなパーソナリティは関係ありません。
この映画を前にした誰しもが、その怪物級のエネルギーと向き合う義務がありますし、21世紀を生きる我々がこの怪物の襲来を避けることは、たぶん許されていないのです。
いや、絶対に勿体無いですって。二度と作られないであろう、こんなひっちゃかめっちゃかな映画とリアルタイムで遭遇出来るんですよ。
と言うか、そういう人生における「事件的」な遭遇が「映画」の醍醐味だと思うんですよね。
ということで、「これを見ずして映画を語るなかれ!」(by.蓮實重彦先生)

おやおや、テメェいつもよりテキストが短くは無いかね、と疑問符浮かべるそこのアナタ様…
うるさい!こんな映画、言語化できないっつーの!
今、中原昌也さん作曲のオリジナルCDを聴きながら、パンフレット一生懸命読んでるんだよ!
正直、この劇場用パンフレットが最も参考になる資料ですし、テキストや写真を含めた95ページにも及ぶ大ボリュームですので、鑑賞された方は、激しく購入を推薦致します。

最後に、本作を鑑賞して最も感じたことは、結局「映画」が一番強いんだ、ということでした。
文学、音楽、演劇、絵画…あらゆる芸術と呼ばれるモノの中で、ああ、映画に描けないモノは無いんだな、映画に限界なんて無いんだなって、確信を持つことが出来たんですよ。
そういう勇気を貰ったような気がします。
映画に関して論じる際に、いまや100万字の論文は不要となりました。
なぜなら、映画という最強の芸術、『神々のたそがれ』を提示すればいいのですから。

そして、映画界唯一の哀しみは、本作がゲルマン監督の遺作であり、このトンデモナイ怪物を創り出した魔術師は、もう21世紀を生きていないという、ただその一点のみであります。


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2015年3月28日土曜日

ペンも拾えぬ僕だから 『博士と彼女のセオリー』

『博士と彼女のセオリー』(2014年/ジェームズ・マーシュ監督)
【あらすじ】
天才の身体がやばいので、奥さんが支えます。

毎年の恒例行事としてアカデミー賞の予想を勝手にしているのですが、主要ノミニーに関しては、ココ5年間連続で的中させていたんですよ。
が!今年、ついにその連勝記録にピリオドが打たれてしまいました。ファック!(別に誰も損はしない)
外してしまったのは、主演男優賞。
私は『バードマン』のマイケル・キートンを予想していたのですが、結果は本作『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインくんが見事オスカーに輝きました。
確かにレッドメインくんは若手演技派ではありますが、彼はまだ若いですし、まさか『レミゼ』の革命野郎が獲るとは思っていませんでした。(語弊を招く文字列)
しかし、いざ映画本編を観たら超納得。こりゃあオスカー差し上げないと、ってなりますよ。
(ちなみに監督賞もハズしまして、私は『6才のボクが、大人になるまで。』のリチャード・リンクレイターを予想したのですが、結果は「声に出して言いたい監督」ことアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥさんが受賞なさりました。)

本作は、理論物理学者であるスティーヴン・ホーキング博士の奥さん、ジェーン・ホーキングさんの回顧録『Travelling to Infinity: My Life with Stephen』が原作。
1963年ケンブリッジ大学で出会ったホーキングとジェーンが、ホーキングが患った大病をキッカケに、互いに惹かれ合いつつ摩擦していく、25年の夫婦生活を描いたオトナな一本です。

当然、主演はホーキング博士なのですけれど、結論から言うと、私は奥さんのジェーンさんの姿に胸を打たれてしまいました。
なるほど、夫が大病に倒れようとも、必死に彼を支える献身的な姿に涙したのね…
と、思われたアナタ。
否!
これが全然っ、そんな綺麗ごとで済まされるハナシじゃねぇんだよ!、というのが本作のキモです。

結論から言うと、夫婦でお互いに愛し合ってるのは確かなんですけれど、だからこそお互いに裏切り合う、ちょち怖いけど、かなーりオトナなラブストーリーだと感じました。

エディ・レッドメインが演じたホーキング博士ですが、芝居と言うより、もはやメタモルフォーゼの域に達しています。
凡庸な言い方ですが、本当にALS(運動ニューロン疾患)患者にしか見えないんですよ。
しかもコレ、パンフレットにて映画評論家の杉谷伸子さんも書かれていましたが、この手の俳優が醸しがちな独特の「熱演感」と言うか、「ドヤッ!俺ってすごいやろ!」な自己顕示欲がですね、ほぼゼロに等しいんです。
つまり、観客に全く「演技」として意識をさせず、スクリーンに映っているメガネが汚れた青年は「スティーヴン・ホーキング博士本人」であると思わせるチカラが、彼にはみなぎっているのです。

言ってしまえば、私は若かりし頃のホーキング博士のことを微塵も知りませんでした。
当然、彼にも青春時代があり、もちろん普通に歩いたり、話したりしていたはずです。そう、それは当然なんです。でも、やっぱり車椅子に乗っていらっしゃる姿でしか博士のことを認識しておらず、彼の私生活については、まず知ろうとも思っていませんでした。

だからこそ、本作が描く「天才」だけではない「人間」ホーキング博士の実態の面白さや魅力には、驚嘆すると同時に、非常に感心させられた次第です。
ってか、ホーキング超楽観主義やんけ!と、まず彼のポジティブ・シンキングな性格にびっくり。
治療法の無い病を患い、余命2年を宣告されたにも関わらず、彼の口から弱音は吐かれません。口から出るのはユーモア溢れる発言ばっかり。と言うか、病気になる前からオンナ好きだしギャンブルも好きだったみたいで、元々ド真面目な性格ではなかったんですね。
例えば、2段ベッドから降りる際に階段を使わず、そのまま机の上に足を降ろすという場面があります。この細かな仕草一つから見ても、決してただのインテリ青年ではなく、頭以外の中身は、実は私たちと何ら変わりないというリアリティをもたらしてくれるのです。
なるほど、ホーキング博士ってこんなに明るくて面白いヒトなんだぁ、と発見できましたし、彼の楽観的な性格のおかげで、難病モノにありがちな、いわゆる「お涙頂戴」な展開に走っていないのも好感が持てました。


で、奥さんのジェーンさんを演じたフェリシティ・ジョーンズですよ!
告白しますけれど、完全にフェリシティ・ジョーンズのファンになってしまいました。
もうね、彼女に胸を打たれてしまったんです。
オマエ、年中誰かに胸打たれてるな、と思われるかもしれませんけれど、仕方ないですよ、恋多き男なんです(笑)
あと、面食いなんでね。ハリウッド女優さんで綺麗な人は、すぐ好きになっちゃいますから(笑)
もはや私は、「ジョーンズ」という文字列を見聞きした際に、それまでのボンクラ脳が導き出していた「インディ・ジョーンズ」という連想は無くなり、「フェリたん!フェリシティ・ジョーンズたん!」と反射的に思い浮かべることに成功しておりますので。

よく考えてみれば、私がフェリたんとファースト・コンタクトを果たしたのは『アメイジング・スパイダーマン2』の時だったんですね。
当時はあまり意識していませんでしたが、彼女は、デイン・デハーンくんが演じたハリー・オズボーンの秘書ことフェリシア・ハーディを演じてたんですよ。
スパイダーマンの原作読者の方は、この「フェリシア・ハーディ」という名前を聞いただけでもハッ!としてしまうのですが、それもそのはず。
実を言うと、スパイダーマン史上最大のエロキャラにしてお色気担当ヴィラン、ブラック・キャットの本名が「フェリシア・ハーディ」なんです。
(コレ、ネタバレでも何でもないですよ!超有名なエピソードですから!)
なんちゅーこった!じゃあこの秘書チャンが3作目以降でブラック・キャットに変身して、スパイディとあんなことやこんなことを…と、妄想を掻き立てられておりました。

ということで、『博士と彼女のセオリー』では、まだおとなしいブラック・キャットことフェリたんが本当に可愛いのです。(色々と混乱している)

↑『アメイジング・スパイダーマン2』より、秘書のフェリシアを演じるフェリたん。
フェリたんと俺は既にこの時に逢っていた!これは運命だ!(重症)
フェリシティ・ジョーンズ、何が素晴らしいって、彼女の喜怒哀楽の表現の豊かさですよ。
もちろん、表情による芝居という面では、エディ・レッドメインによる眉毛や瞬き一つの動かし方まで徹底した表現力も凄まじかったのは確かです。
しかしながら、フェリシティ・ジョーンズの顔面威力も負けず劣らず。
優しく微笑む表情は、すこぶるキュートで愛くるしい輝きを放ちますが、むしろ彼女の本領が発揮されるのは無表情の時だと思ったんですね。
蓄積された怒りや哀しみを押し殺して、無表情ながら真っ直ぐな眼差しを送る、その「顔面威力」の強大さ。
「静」の表情を見せながら、隠された、いや、どうしても滲み出てしまう「動」の感情を垣間見てしまい、その時スクリーンは、完全に彼女に支配されるのです。
笑顔を浮かべている彼女も十二分に美しかったのですが、押し黙ることによって見せる苛立ちや悲哀の表現が、本当に見事としか言い様がありませんでした。
俺も睨まれたい!(当分、この病は治りません)

どこかで聞いたことのある、ファミリーレストランみたいな名前の優男さん。
さてさて、中盤、このホーキングとジェーンの間に、チャーリー・コックスさん演じるジョナサンという優男が登場するんですよ。
このチャーリー・コックスさん、スコセッシが製作総指揮を務めた『ボードウォーグ・エンパイア』のシーズン2&3で、主人公のスティーブ・ブシェミのボディガードをやってた人なんですね。(あと、テレビドラマ版『デアデビル』の主演も決定したそうな!)
彼が登場してから、ホーキングとジェーンの仲は、少しずつすれ違い始めるのです。
…って昼ドラか!と思われるかもしれませんが、いやいや、これが全くソッチのドロドロ展開はせず。まさに観客の予想とは異なる、大変オトナな回答を示すのが、本作の特筆すべき点なのです。

ジェーンとしては、わたしひとりで介護するのは大変だからと、ジョナサンに助けを求めるんです。
ただ、ホーキングからしてみれば、家庭内に他の男が入って来るのがスゲェ気に食わないワケですよ。
だから最初は、ジョナサンに対して敵意むきだしなんです。

ホーキング家で、ジョナサンが夫婦と一緒に食事をするシーンがあるんですね。
その時に、ジョナサンが食事を、スプーンでホーキングの口元まで運んであげるんですよ。
つまりは、「あーん」してあげるんです。
だけど、ホーキングは、もうあからさまにガン無視かますんですよ(笑)
お前がすくった喰いモノなんか喰わねえよ!って。男として、夫として意地張っちゃう。その姿がすごいおかしいんですけどね。
でも、ホーキングも徐々にジェーンの気持ちに気付いてきて、結果的にジョナサンが介護を手伝うことを認めます。
それは彼なりに、辛い決断の一つだったんですよね。

少しばかりうがった見方をすれば、奥さんの浮気と言うか、そういうスキャンダルを自ら肯定して認めるみたいな、そういう感覚なんですよ。

対してホーキング自身も、物語の終盤、ジェーンに対してどういう決断を迫るのか。
そしてジェーンは、果たしてそれをどのように認めるのか。
傍から覗けば、実にスキャンダラスな関係性に見えるかもしれない、ホーキング夫婦の「カタチ」。
しかしながら、当の本人たちにとっては、お互いを心から信頼し合っているからこそ導き出された「カタチ」そのものなのです。
だからこそ、我々観客は、この驚くべき不思議な夫婦の「カタチ」を目の当たりにしても、決して嫌悪感は抱かず、むしろ祝福するかのように、彼らの結論に心奪われるのです。

これはプロットからも容易に想像できる通り、『ブルーバレンタイン』とか『レボリューショナリー・ロード』とか、最近で言えば『ゴーン・ガール』も含まれますが、要はジャンルとしては「夫婦モノ」なんです。
もっと言えば、夫婦にとっての「愛のカタチに関する新しいセオリー」を提示する映画とでも言いましょうか。

本作の作り手は、この夫婦の「カタチ」を否定するわけでも称賛するわけでもなく、その結論を導き出したあらゆる過程、つまり「時間」を優しく見つめ直し、夫婦にとっての「小史」として描いています。その平等な視線と精神こそ、マコトに素晴らしいと思った次第です。

ホーキング博士本人とレッドメイン&フェリたんのスリーショット。いい写真。
ところで、物語終盤、ホーキング博士の講演会が行われるシークエンスにて、非常に印象的なシーンがありました。
多くのオーディエンスが集まる中、学生の一人が机の上からペンを落としてしまいます。
それを見たホーキングは、車椅子から立ち上がり、自分がそのペンを拾い上げに行く…という想像をするんですよ。当然、彼の身体は動きません。

このシーンは、視覚的に彼の心情を描いた、映画的なカタルシスに満ちた素晴らしい構成であるのと同時に、大変ペーソスなシーンでもあります。
世界的に認められた天才だけれど、一人では落ちたペンすら拾うことが出来ません。
彼がまだ若かりし頃、落ちたペンを拾って机に戻す、というシークエンスが確かにありました。
それがもう、今の自分には一人では出来ない。そう、一人では。

実は『博士と彼女のセオリー』は、落ちたペンを拾ってくれるパートナーの大切さに気付く物語でもあります。

そして重要なのは、ペンも拾えぬ僕「だけど」ではなく、ペンも拾えぬ僕「だから」という結論が導かれている点です。
ペンも拾えぬ僕「だけど」、どうかずっとそばにいてほしい…という願いではなく、ペンも拾えぬ僕「だから」、僕と君は…さて、ホーキング博士が導き出したオトナな愛のカタチとは?

ここで述べている「ペン」というのは、何もモノホンのボールペンだとかシャープペンシルだとかを指しているのではありません。
それはつまり、人間が一人では乗り越えられない「困難」であったり「苦難」であったり、そういったパートナーと共に立ち向かうべき「障壁」を意味していると思います。

さて、今この文章を読まれている紳士淑女の皆さま。
果たしてあなたは、落ちた「ペン」を一人で拾うことが出来るでしょうか。
或いは、その「ペン」を拾ってくれる大切な人と出会うことが出来ているでしょうか。
どうか一人でも多くの皆さんが、ペンを落とすことを恐れませんように。




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2015年3月26日木曜日

世界一HAPPYな屍(になりたい私たち) 『ゾンビデオ』

『ゾンビデオ』(2012年/村上賢司監督)
【あらすじ】
矢島舞美さんが日用品を駆使してゾンビを倒しまくります。

渋谷ユーロスペースにて『ゾンビデオ』の上映に足を運んだのが2013年。
今から数えて、かれこれ2年前となります。
当時、私はムラケンさん(村上賢司監督の愛称)の新作にして和製ゾンビ映画という、言ってしまえばただそれだけのエサに飛びつく魚だったのですが(笑)、鑑賞後の脳内を渦巻くアドレナリンと言うか、ドーパミンと言うか、とにもかくにも感情は高揚し、レイトショーだったので終電ギリギリで帰宅し、帰宅しても尚、興奮し続けていたのを、ぼんやりと記憶しております。

そのぼんやりとした記憶の端々で、真っ赤な血にまみれた「彼女」が格闘する姿、返り血のメイクを施した「彼女」の表情、そして美しく力強い「彼女」の眼差しが、まるで走馬灯のようにフラッシュバックされておりました。

…え、人はそれを「恋」と呼ぶのです、ですって…?

ということで、私が彼女の存在を認識してから、かれこれ2年となります。
後にファナティックな感情を抱くに至り、現在リアルタイムでこのキモチ悪い文章を記している訳ですけれど、とりあえず、私の恋バナは一旦置いておいて(笑)、ホラー映画が苦手な方や、ゾンビ映画ビギナーな方にも推薦したい一本『ゾンビデオ』のハナシです。

【公開を2年遅らせろ】

突如発生したゾンビに対して、「ゾンビ学入門」という名のゾンビ撃退HOW TOビデオを見ながら、美少女がゾンビをぶっ倒していく、というのがシノプシス。
主人公を演じるのは、ハロープロジェクトのアイドルグループ・℃-uteのリーダーである矢島舞美さん。
同じく、℃-uteのメンバーである中島早貴さんも、ちょちワケありなゾンビ役で出演しています。

私が本作の存在を初めて知ったのは、『ゾンビ映画大マガジン』(洋泉社)で紹介されている記事でした。元々は『ゾンビ学入門』というタイトルで製作が進行しており、当時は、ムラケンさんが監督、人生をゾンビに捧げていらっしゃるゾンビ映画研究家の伊東美和さんが監修、そして『映画秘宝』読者やサブカル界隈ではご存知アイドルの小明さんがゾンビ役で出演するという情報のみが提示されていました。

後に「公開を2年遅らせろ」という霊媒師の忠告を受け公開延期となった本作は、ファンの要望により結局1年早く上映がされたとのことです。
ちなみに、霊媒師が告げた「2年後=2013年」という数字は、偶然なのか、℃-uteにとっても忘れがたい年となっています。℃-uteはこの年、自身初の武道館公演を成功させ、その人気に増々の拍車をかけることになったのです。そんなオメデタイ年だからこその延期忠告だったのか、或いは、忠告を1年間だけ守ったおかげでオメデタくなったのか、真相は霊媒師のみぞ知る、ということで。


【アイドルとホラー映画】

アイドル×ホラーという公式は、何も珍しいことではありません。
同じハロプロ勢ならば、真野恵理菜さん(2013年ハロプロ卒業後、現在はジャストプロ所属)が出演している『怪談新耳袋 怪奇』も大変素晴らしいアイドル・ホラー映画でした。

そもそも、アイドル・ホラー映画の客層は、必然的にファンがターゲットとなっており、それは同時に、アイドルの微細な表情の変化をくみ取れる観客であることも意味します。
その「顔」、すなわち表情の変化で感情を表現する芝居が多くなるため、クローズアップが多用されるのも、このジャンルの特徴です。(もちろん、ファンサービスの面もありますが・笑)

否演技巧者であるアイドルは、演技と言うよりは、自身を「素」の状態にして、パーソナリティの経験値から感情を引き出していきます。
だからこそ、「女優」のようなプロフェッショナルには出せない「現実感」を生みだすことが出来る訳です。

…しかしながら、正直、どうせ絶叫したり怖がったりするのなら、可愛い女の子の方がいいじゃん!というのが一理。
(ちなみに、上記したアイドルとホラーの関係性については、TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』で放送された『心霊映画特集』において、映画監督であり脚本家の三宅隆太さんがお話しされたことを参照しています)

一見すると、『ゾンビデオ』は低予算のアイドル・ホラー映画のように見えます。
いえ、実際にその通りです。
しかし、重要なのは本作が「アイドル×ホラー×コメディ」という3つの要素から成り立っている点です。ここまで陽気で、愉快で、老若男女問わず、ホラーファンもホラー嫌いも楽しめるアイドル・ホラー映画は珍しいのではないでしょうか。

…なんて書きますと、やれ画面がチープだの、やれ脚本にツッコミが多すぎるだの、どこが誰でも楽しめるんだい、と、真剣にぷんすか文句を垂れる方々がいらっしゃいますけどね…るせーよバカ!
ゾンビが出て、美少女が出て、その美少女がゾンビをぶっ殺しまくるんだぞ。最高じゃないか!

偏見を持たれがちなホラー映画やゾンビ映画は、こんなに笑えて楽しんものなんだよ!という作り手側のメッセージだけでも、本作の存在価値は証明されています。
それはまるで、ゾンビ・コメディ映画の傑作『死霊のはらわた2』や『バタリアン』がそうであったように。
スクリーンに血しぶき、客席に笑顔。
そんな映画こそ、どんなに上品ぶった文芸映画よりも、よっぽど芸術的だと信じております。

【ゾンビより危ういオトナたち】

『ゾンビデオ』のもう一つの魅力に、脇を固める俳優陣がすこぶる強烈であることが挙げられます。
宮崎吐夢さん(ホラー映画オタク役)、大堀こういちさん(オカマの社長役)、鳥居みゆきさん(ゾンビになれなかったゾンビ役)、諏訪太郎さん(『冷たい熱帯魚』に続き、また死ぬ役)たちによる、コメディ・アンサンブルが実に見事でして、本作がアイドル・ホラー・コメディとして成立した要因は、彼らの功績だと言っても過言ではありません。

宮崎吐夢さん演じる橋本を見て「これは俺らだぁ~」と思ったり、大堀こういちさん演じるオカマ社長は「そうそう、昔のホラーにはこういうヘンなキャラがいて、妙に言うことに説得力があるんだよなぁ~」と思ったり、鳥居みゆきさん演じるヤスデは「この格好はマンマ女囚さそりやないかい…ってか、鳥居さん美人!」と思ったり、諏訪さんが指を噛まれて股に挟んだのには笑いましたし…と言うか、全員が濃すぎるんですよね、良い意味で。

しっかし、さすがにふんどし姿の杉作J太郎さんが登場した時には驚きました。場内爆笑だったのを憶えています。まさか杉作さんが最強のゾンビデオだったとは!(笑)

つまるところ、『ゾンビデオ』は矢島舞美さん、中島早貴さんという現役アイドルたちを、ゾンビ以上に危ういオトナたちと共演させるという、その企画自体が前代未聞であったと思います。
尚且つ「世界一キュートなゾンビ映画」というキャッチコピーに偽り無し、今まで観たことも無い、明るく楽しいアイドル・ホラー・コメディへと仕上がっているのも事実です。

【低予算ホラーだからこその創意工夫】

もう一つ。実を言うと、私は何度か映画を制作したことがある身でして、そういう者からすると、心底感心してしまう箇所がありまして。

ホラー映画というのは、基本的にロケーションが難しいんです。なぜなら、「汚してしまう」可能性が多分にあるから。血糊を使用するスプラッターになると尚更、血まみれの現場を現状復帰するのは非常に大変な作業です。
それらを踏まえて、『ゾンビデオ』が工夫しているなぁと感じたのが、舞台となるビルを「改装中」という設定にしたことでしょう。

血糊などを使用する撮影の際は、キャメラが汚れないように「養生シート」で覆います。『ゾンビデオ』では、ビルのいたるところに養生が成されているのですが、これが改装中という設定のおかげで、全く違和感がありません。
なるほど、これは一つ上手いこと考えたなぁ、と感心せざるを得ませんでした。
低予算映画の面白いところは、こうした作り手のクリエイティビティが垣間見れる点です。
グッジョブ!


【主演女優・矢島舞美に関するファナティックな表明】

さて、乱文・駄文の極みと言いますか、本来であればここで筆を置いて…いや、キーボードから手を離せばいいのですが、ここから文章は更にキモチ悪さを加速させていく予定なので(笑)、心の広大な方も、たった今薄み笑いを浮かべながらキレかかっている方も、そして総ての℃-uteファンでいらっしゃる方も、何卒ラストランまでお付き合いくださいませ。

以下のセクションにおきましては、主に「彼女」に関する事柄を書き綴らせていただきます。(このことは、あらゆる媒体、及びプライベートですら誰にも言ったことがありませんで、私の心の中の秘密でしたので、そういうブッチャケをしているということを、文章のバイブスから感じ取ってくださいませ・笑)

ファースト・セクションでも述べたように、本作を鑑賞して以来、私は「彼女」の魅力(「実力」ではなく「魅力」、ココ、重要!)に憑りつかれてしまい、早いところお祓いすれば良かったものの、現代は情報社会ですから気軽にYOUナントカTUBEで「彼女」が歌唱し、舞い踊る姿が拝見できてしまいまして、もう完全に除霊不可となってしまいました。

もうバコーンと、バコーンと心がずいぶん重くなってしまって、帰りに食べるうどんも喉が通らないと言いますか…(ごめんなさい、完全に℃-uteファンの皆さんに向けて発信しておりますので・笑)

ということで、矢島舞美さんの魅力を語るのは、この乱文内においては遥かに空間が不足しており、不可能です。

しかし、不肖映画呪われ人な私から、『ゾンビデオ』の矢島さんに対して最上級の賛辞を送らせていただくとするならば、第一に「今まで血を浴びてきた幾多の女性の中でも最も美しい」ということ、そして第二に「格闘されている姿が、まるで志穂美悦子さんのようだった」ということ、であります。


【血まみれで闘う女性が、映画で最も美しい】

上半身は血糊で真っ赤に染まった黄色のタンクトップ(ちなみに黄色と言えば℃-uteのメンバー・萩原舞さんのイメージカラーですが、ホラー嫌いであるメンバー最年少の象徴を血まみれの赤=矢島舞美さんのイメージカラーに染めるとは、これ真相如何に。って、絶対に深い意味は無いと思いますけれど・笑)、下半身はホットパンツという、完璧な装いで立ち振る舞う彼女の姿は、眺めてるだけで至福、その画だけで満足。

鮮血(では無いですね、ゾンビの血だから)を浴びつつも、乱れ髪の間から覗かせるその眼差しの力強さたるや。もうね、格闘する以前に勝敗が決まっているんですよ。あの目と対峙する者は、既に敗北していると言いますか。そういう目をしていらっしゃるんです。
アイドル映画は目力命と言われますが、だとしたら、矢島さんが映られたあらゆるカットは、マコトに「アイドル映画」としての機能を保っていたと断言致しましょう。

また、楳図かずお作品ライク、対象物を見て「恐怖」する姿が丁寧に描かれており、その点においても好感を抱きました。私は、楳図先生原理主義者ですから、女性が何かを見て「怯えている」姿がタマラナク好きでして、怯えフェチと言いますか(笑)、もう怯えられてるだけでご飯三杯はイケるのですよ。

劇中における矢島さんも、ゾンビとのファースト・コンタクトでしっかりと怯えていらっしゃるんです。単なるファンサービス・カットではなく、作り手がちゃんとその「怯え」を信じてショットを捉えているのが分かります。
この「怯え」という対比があるからこそ、後半以降の眼差しの力強さも、より効果的なヴィジュアルとして、私たちの網膜に焼き付かせることを成功させているように感じます。

アクション面に関してですが、元々℃-uteはダンスに定評のあるグループですから、矢島さんの身のこなし具合には微塵も心配ご無用です。(アクション指導をなさった亜紗美さんによると、ダンスの動きとアクションの動きは若干異なり、まずはそれを修正するトレーニングから始めたらしいですが、矢島さんはモノの数分で映画アクションを取得されたとか)

華麗にアクションをこなした後に魅せる、あの顔。
「キメ画」がしっかり映えるのも、矢島さんの魅力の一つですから、古今東西、様々なアクション映画で活躍を目撃したいと切に願っております。
そういう意味で彼女を、映画ボンクラにとって永遠のアクション女優、志穂美悦子さんの再来と賞賛したい所存です。
え、褒め過ぎだって? さきイカ喰ってのどにつまらせて死ね!(また℃-uteネタです、すみません・笑)

【アイドルがアイドルを「殺す」】

劇中、矢島さんがゾンビ化した女子高生・小明さんの頭部を掴み、そのまま扇風機へと突っ込む場面があります。
このシーンは、スプラッターとして噴き出す血の雨の多さ(さすがは西村映造!)、「もう死んでるけど死ねー!」という素晴らしい台詞(ちなみに、この台詞は脚本には無く監督のオリジナル)などがあり、大変愉快な仕上がりとなっています。

しかし、この矢島舞美と小明という二人のアイドルが対峙し、退治する・される(駄洒落じゃないですよ・笑)という縮図に、私の心は引っ掛かりを拭えません。

矢島舞美さんは現在23歳にして、既に芸歴12年(!)という驚くべきキャリアの持ち主ですが、無論、℃-uteがスターダムをのし上がるまでの道のりは険しく、悔しくて悔しくて、ぶち壊したい夜もあったと察します。(文章がおかしいですが、おかしいのは当たり前で、これは℃-uteのNEWシングル『次の角を曲がれ』より歌詞を引用しているからです。ご容赦願います・笑)

一方、小明さんと言えば、名著『アイドル墜落日記』などからも分かるように、アイドルとして「売れない」自身を自嘲し、自虐的にエピソード化することにより注目を浴びたアイドルと言えます。最近ではゾンビアイドルとしても有名ですが、彼女の芸歴13年という年月も、決してポジティブシンキングでは語れない苦悩に満ちた日々だったはずです。

僅か1年の差とは言え、そして同じ「アイドル」と呼ばれる職業とは言え、矢島さんが小明さんを退治するという描写は、現在アイドル界の縮図のようにも見えました。
それはまるで、勝者と敗者の関係性であり、或いは、勝者から敗者への勝利宣言でもあるかのようです。

「もう死んでるけど死ね」
あなたは今、アイドルを目指しているのかもしれない。
でも、これ以上アイドルを続けたって、いつ成功するかも分からないし、その保障もない。
次から次へと、アイドルという名の新しい少女たちは生まれて来て、そして「死んでいく」。
アイドルは夢のある職業だけれど、同時に犠牲にするものも沢山ある。
これ以上傷付く少女たちを見たくない。だったら、私があなたに勝って、私が「殺す」。
矢島さんの叫びは、もしかすると、そんな哀しき叫びだったのかもしれません。

しかし、その叫びを受けて抹殺された小明さんは、敗北宣言を示しません。
胴体から首が切断され、地面に転がる小明さんの頭部。
その顔が一瞬、ニヤリと笑みを浮かべます。
「そんなの分かってる。だからこそ、私はあきらめないし、負けない。なぜなら私は、アイドルだから
まるで敗者から勝者への、いや、アイドルからアイドルに対しての、ネバーギブアップなファイト宣言のように。

ともすると、この身勝手で深読みな憶測は、小明さんサイドに対して完全に失礼な言論でありますから、とてもこんな場所に記すべからずだとは思うのですが、あの小明さんならば許して下さると信じて、インターネット大海原への公開を決意した次第です。

とは言え、ホントにこれは完全な私の深読み(という名の遊び・笑)なので、あらゆるアイドルファンの皆さま、並びに℃-uteファンの皆さま、マジにしないでくださいよ(笑)
自分で述べるのは恐縮ですけれど、恐らく、『ゾンビデオ』に関して上記のような見解を示したテキストは、全世界初、銀河系初だと自負しておりますので(笑)


【世界一HAPPYなアイドルのファンは、世界一HAPPYなファンになれるか】

ゾンビ映画における「ゾンビ」というのは、大抵の場合は「何か」のメタファーとして描かれることがほとんどです。
では、『ゾンビデオ』における「ゾンビ」とは、一体何を象徴しているのでしょうか。

私は「アイドルを妨害するあらゆる困難」として捉えました。

それは、ちょち宗教的なファンであったり、病気や怪我であったり、年齢であったり、時間であったり、そして恋愛であったり。
イケメンの宅配業者の青年が、矢島さん自身の手で殺されるというシークエンスは、アイドルが「恋愛」を拒絶しなくてはならない存在であることのメタファーではないでしょうか。

このように、『ゾンビデオ』はアイドルとゾンビを掛け合わせた題材としての宿命をしっかりと背負っており、それは結論、ラストシーンまで徹底されているように思えました。

こんなにも全編血まみれなのに、エンドロールには℃-uteの『世界一HAPPYな女の子』という、とてつもなく幸福なアイドル・ソングが流れます。

女の子って不思議
少しデインジャーな恋愛
求めながら生きている

正直言ってチャライ
あいつにちょっと I LOVE YOU
どうやって距離縮めようかな

ほんとはね そう 悔しい
負けたくない
世界一で一番HAPPY!
目指すんだもん!

それはまるで、危険なゾンビたちと格闘し続けた矢島さんの歌であり、同時にアイドルであることをあきらめない小明さんの歌でもあるかのように響き渡ります。
少し危険で、犠牲もある。
それでも、自分に負けたくない。
なぜならわたしは、世界で一番、HAPPYなアイドルになるのだから。

ああ、映画の神様! アイドル映画が撮れる監督! つんくさん!
願わくば、℃-ute5人が主演となる劇映画を世に放ちまして、私にもう一度、このカタルシスを体験させてください。
それまでは死んでも死に切れん! いや、死んだらゾンビとして蘇るまでよ!
その時は矢島さん、どうか気持ち良く、俺をぶっ殺してください!(いよいよロジックも発言も危うい)

と、私が『幕が上がる』を鑑賞して感じた「悔しさ」と「羨ましさ」というのは、まさにコレのことです。
モノノフの皆さんよ、アンタたちだけが世界一HAPPYになるのは許さんぞ!(笑)

ということで、矢島舞美さん、並びに℃-uteの皆さん主演の、世界一HAPPYなアイドル映画が完成されることを夢見て。
そして、それが実現した暁には、私たちは次のように述べてもいいのではないでしょうか。
我々は、世界一HAPPYなファンである、と。


【関連記事リンク】
灰とダイヤモンド 『幕が上がる』
今まで私が書いてきた文章の中で唯一バズって(笑)、トンデモない閲覧数を叩き出してしまった『幕が上がる』に関する記事です。もっとも、以前は「モノノフではない映画好きが書いた『幕が上がる』評」でしたが、今回は「アイドルファンでは無いが唯一ファン宣言している℃-uteファンの映画好きが書いた『ゾンビデオ』評」ということでした(笑)




追記1
今回はあくまでも『ゾンビデオ』内の矢島さんについてのみ記しましたが、本当は駄文の許される限り色々と書きたいことがあるので、続きは「矢島舞美の雨女特集」にて!(嘘!)

追記2
痛いっ!な、殴らないで!なんで矢島舞美のことばかりで中島早貴について全然書かれてないんだって怒らないでください!キャプチャ一枚も無いのも怒らないで!し、仕方ないでしょ、そういうロジックで語る文章じゃなかったでしょ、今回は!イテッ!いや、なっきぃも好きです!なっきぃも大好きですから!ぐはっ!痛いよ!


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2015年3月22日日曜日

黙祷できれば、葬儀は終わる 『アメリカン・スナイパー』

『アメリカン・スナイパー』(2014年/クリント・イーストウッド監督)
【あらすじ】
アメリカ人スナイパーが困ります。

ユニクロで購入したオレンジ色のフリース姿で『アメリカン・スナイパー』を鑑賞したのですが、鑑賞後に感じたのは、なるべく黒を基調とした「正装」をして本作を観るべきだった、という感情でした。

なぜなら、『アメリカン・スナイパー』は「映画」で「葬儀」を行うからです。

映画内に葬儀の場面があるという意味ではありません。
この映画全編、スタートからフィニッシュまでの総てが「葬儀」なのです。

果たして、喪服を着用するべきだったとは皮肉にも思わないものの、ユニクロのオレンジ色のフリースで「葬儀」に参列するべきだったのカシラ?と、極めて個人的な余韻に浸っておりました。

以下、日本公開から日数が経過していること、及び本作が「実話」を基にしたフィクションであることを前提に記しますのでご容赦願います。(私的にはネタバレではないと思いますけれど、そういうのイヤだい!って方はブラウザバックを。ってかイーストウッドの新作がシネコンで掛かってるのに「DVDでいいや」と観に行かないヤツ!お前はもういい!金輪際、映画好きと自称するな!)

ということで、私は『アメリカン・スナイパー』という映画を観たというよりは、「故クリス・カイルさんの葬儀に参列した」という印象の方が強く残っています。

は?主人公死ぬのかよ!あんだテメェオチ言いやがって!と抜かす輩に対しては、ブラウザバッグの推薦文を読んでいないのかと疑問を抱くと共に、朝・夕の報道番組内においても、彼の死がニュースとして扱われていた事実を述べておきす。(ってか、いいから行け!劇場へ!)

勿論、アメリカの観客は「クリスが亡くなっていることが前提」で本作を鑑賞していますし、この結末にネタがバレたと文句を垂れるのは、少々的外れな気がしなくもありません。
と言うか、私の意見としましては、本作は初めからその「前提」ありきで観た方が、より楽しめるのではないかと思っています。
葬儀に参列するのだから、誰が亡くなったのかぐらいは既知していても良いのではないかと。

幼い頃より父親から「狼から羊たちを守る番犬になれ」と教育されたクリス・カイル。
彼は強い愛国心から海軍に志願し、後に特殊部隊ネイビー・シールズへ入隊します。
そして、抜群の腕を持つ狙撃手として、イラク戦争の最前線へと繰り出します。
よっしゃ、愛する祖国のために狼たちを倒しまくるぜ!と、彼がスコープを覗いた先には…
え、女? 子ども?
そう、実際にスコープの先に居た標的は、狼ではなくだったワケです。

もはや、この構成だけで心撃ち抜かれたと言いますか、現代アメリカが抱える病理を鋭くえぐってみせたと言えましょう。
もうブレッブレに揺れまくる、このヒロイズム感。
もはや喪失されつつあるアメリカのマッチョイズムや、真にデタラメだったイラク戦争への皮肉として、こんなにもストレートで巧みな描かれ方があったでしょうか。
さっすがイーストウッドです。

で、そういう点も踏まえて記しますが、一部で賛否両論騒がれている「戦争賛美映画」or「反戦映画」みたいな論争ですが、(これは定点カメラ視点の逃げ発言では無く)私には微塵も興味がありませんで、とても歯痒く、とても不毛に思えて仕方ありません。

前述した通り、私は本作を一つの「葬儀」として捉えており、喪主であるイーストウッド御大による、故クリス・カイルへの「映画」という名のレクイエムだと信じています。
「戦争」に対する様々なテーマ性が込められた作品なのは間違いありませんけれど…あのさあ、もっと気軽に楽しもうよ。映画なんだから。実は少年漫画みたいな燃えるハナシなんだから!(笑)

つまりは、ラストシークエンスからエンドロール以外は、故人がどのような人生を生きたのかを紹介するセクションであり、時にはユーモアも交えながら、その思い出や生き様を見ているような錯覚に陥ったのです。
ちょち矛盾しますけれど、「アイツはマジで伝説の男だったんだぜー」「いや、あの時はアイツも大変だったよなー」という、通夜で晩酌しながら語らう思い出話のようなノリだと思っています。

不謹慎ながら、随所の銃撃シーンには心からの興奮、高揚を隠し切れず、終始カッケーと笑みを浮かべて鑑賞しておりました。
敵サイドに、元オリンピック選手の狙撃手「ムスタファ」(電動ドリルに鳥肌)を配置するのなんて、まさに西部劇。
アフガニスタン(へと見事に変貌を遂げている、実際はモロッコ)で繰り広げられる銃撃戦の数々だけでも、本作を傑作足らしめる十二分な要素かと思っています。
本作がアンチ・カタルシスであるという論評を見聞きしましたが、後述するラストシークエンス以外は、私は全くそうは思いません。
正真正銘、『アメリカン・スナイパー』はエンターテイメントだと思いますし、イーストウッドだって、めちゃくちゃ楽しそうに現場で指揮をしていたはずだと想像してしまいます。
と言うか、そのイーストウッドのハイテンションな様子が、伝わってきませんか、スクリーンから!
砂嵐のように!(笑)

このテの作品を言語化しようとする際に、私たちの厄介な固定概念として「楽しんだら不謹慎だと思われる」みたいな感情ってあると思います。
「戦争を扱った題材だから、面白いとか楽しいとか思っては、それは人として不謹慎?」
断固として言えます。答えはノーだと。
なぜなら、これは「映画」だから。
それ以上でも、それ以下でもありません。

本作が実にイーストウッドらしいと言いますか、彼の優しさが心底感じられたのがラストシークエンスです。
私はてっきり、(実際の出来事と同様に)ラストはクリスが元軍人の男に殺害されるのかと思っていました。
いや、結果的に殺害はされるのですが、本作は「それ」を描きません。
クリスが殺害された事実はテロップで表され、代わりに映し出されるのは、彼の葬儀の記録映像です。

本来であれば、非常にエンタメとして機能を続けていた本作ですから、ラストシークエンスにおいても、クリスの死が描かれた方が物語性は増すかもしれません。
でも、葬式の終盤、ギャーギャー騒いでいるヤツはいないはずです。
何よりも、イーストウッドの配慮と言うか心意気が、ラスト直前に移された子どもたち、そしてラストカットを飾る妻、残された家族たちへ捧げられているように思えて、目頭が熱くなりました。
クリス・カイルは、アメリカン・スナイパーである以上に、一人の父親です。
そのことを私たちに再認識させて、この葬儀はラストランへと突入します。

極上のエンターテイメント体験をした後に待ち受けるのは、エンニオ・モリコーネ作『The Funeral』の旋律が乗る実際の記録映像。
そして、まるで「黙祷」を意味するかのように無音が続くエンドロール。
「映画」という名の「葬儀」は、我々観客の「黙祷」により終わりを迎えます。

『アメリカン・スナイパー』を観て、どよーんと落ち込んだ人も、熱く興奮した人も、戦争賛美なんか許せんと怒った人も、反戦映画として褒めちぎった人も、あらゆる総ての人々が、
最後にしっかりと「黙祷」なされたことを、心から願っております。
一つでも多くの、哀悼が届きますように。


ところで、この映画、鑑賞後に猛烈に思うことがあります。
音楽が欲しい!!
そう、あの無音のエンドロールの余韻から解放されると、途端に音楽が聴きたくなるのです。
だからこそ、私たちが家に帰って、するべき最善策は一つしかありません。
さあ、今すぐBlu-rayディスクをセットして、大音量のボリュームで鑑賞しましょう。
『ジャージー・ボーイズ』を。


追伸
「なぜ私に声を掛けたの?」「悲しそうだったから」
「バーから私を救ってくれたのね」「いや、君からバーを救ったのさ」
言いたい!!!(笑)


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2015年3月21日土曜日

戦争の犠牲者は「女」 『赤い天使』

『赤い天使』(1966年/増村保造監督)
【あらすじ】
看護婦が患者からセクハラを受けます。

個人的な趣味嗜好のハナシになるのですが、私が日本の映画監督で最も崇拝している人物こそ、増村保造その人であります。
理由は単純明快、彼の監督作品は「どれを観ても面白いから」です。
って、そんな監督ゴマンといらっしゃるわと申すなかれ。
もう少し真面目に答えるならば「世界で最も日本映画っぽくない日本映画を作る監督だから」でしょうか。
この辺のハナシは、私のベスト・オブ・マスムラ『くちづけ』の記事にて記すことにします。

そんな増村の作品を初めて観たのは大学一年生の頃でして、名画座で上映されていた『赤い天使』との遭遇がファースト・コンタクトとなりました。
な、なんちゅーすごい映画なんだ…そして、なんちゅーエロい映画なんだ…と、凄まじく感動したのをよく覚えております。(後に『刺青』というもっとエロい映画に出会うことになりますが・笑)

さて、『赤い天使』というタイトルを見聞きした際に、大抵の人々は、何故「赤い」と形容されているのか疑問に思うはずでしょう。
しかし、その疑問は映画本編を観れば容易に解決が成されます。
モノクロの映像。真っ白な白衣に飛び散った鮮血が、どす黒くにじんでいる。
『赤い天使』の「赤」は「血」を指しており、言い換えれば「血まみれの天使」とも言えるのです。

「血まみれの天使」という隠喩が込められているように、『赤い天使』は、どんな反戦プロパガンダ映画よりもストレートに「戦争は恐ろしいものである」と思わせます。
それは本作が「戦争スプラッター・ホラー」故に機能している部分であり、誰しも手や足が無くなるのは「嫌なこと」として、共通恐怖を描いているからこそでありましょう。

類似した恐怖を描いた映画にダルトン・トランボの『ジョニーは戦場へ行った』(71年)という作品もありましたが、『赤い天使』との相違点としては、戦場へ行った兵士の恐怖、つまり男性視点の恐怖が描かれている点です。
対して『赤い天使』は、戦争の底知れぬ恐怖を、女性視点から鋭く捉えてみせます。
加えて、阿鼻叫喚の地獄絵図の中で展開される、究極のラブストーリーとしても本作に意味を持たせています。

論点が逸れるのですが、『赤い天使』における若尾文子さん扮する西さくらの描き方には、増村保造監督らしいエロスとフェティズムが混在しています。
彼女が自身のことを「私」ではなく「西」という苗字で呼ぶのは、実に増村らしい描き方だと感じられます。
「世界の言語の中で「私」を意味する単語は、英独仏の「I」「Ich」「Je」にしても大体一つしかない」と述べていた増村。これは、そんな彼ならではのアプローチとも言えるでしょう。
思えば、劇中の「西が勝ちました」という名台詞は、増村作品のテーマとも言える「女」と「個」の特徴を秀逸に言い表しています。
一人称を苗字で呼ぶ女性が醸し出す甘美なフェティズムを、この時代に先取りして描いていた増村は、現代のオタク文化と通称される「萌え」の要素を、既に作品内で発見していたのかもしれません。
(それらの兆候は、『痴人の愛』(67年)や『でんきくらげ』(70年)、『しびれくらげ』(70年)等にも見受けることが出来ます)

普段は真面目な看護婦ながら、情事となると突然に「西を抱いてください!」「西の体に触ってください!」と甘えを見せる西さくら。
いやはや、弱いです、私。こういうツンデレな女性(笑)
未だ現実世界において、"一人称苗字女子"との遭遇は果たしておりませんが、そのツンデレな魅力を、死ぬまでに一度は味わいたい所存であります。
ということで、『赤い天使』が特にフランスでカルト的な人気を博しているのは、一人称が「Je」ではなく「Nishi」と表記されているからなのかもしれません、と言うのは、いくら何でも暴論でしょうか(笑)

ところで、若尾文子さんは完成した作品を、未だに観ていないそうです。
曰く「あまりにも酷たらしい現場だったから」というのが、その理由です。
この、西を演じた若尾さん本人が抱く嫌悪感こそ、女性にとっての戦争とは何かを抽象的に表しているのではないでしょうか。

戦争となれば病院も戦場と化します。
「生」に絶望し「性」の欲望に狂う男たち。男にとっての「天使」は居ても、女にとっての「天使」は存在しません。
さて、あなたは「天使」になれるでしょうか。そんな残酷な問いが聞こえてくるようです。

手や足が無くなることへの恐怖よりも、我々男性が感じ取らねばならぬ極論は、「戦争をやってはいけない。なぜなら女性が悲しむから」という、如何にも増村監督らしいテーマなのではないでしょうか。


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2015年3月17日火曜日

「面白そう」の映画 『チャーリーズ・エンジェル』

『チャーリーズ・エンジェル』(2000年/マックG監督)
【あらすじ】
3人のおねえちゃんたちが悪いやつを倒します。

『チャーリーズ・エンジェル』は、それまでの女性アクション映画とは一線を画していました。
そもそも、従来の女性アクション映画は「なぜ女が闘うのか?」ということがテーマになっておりまして、 復讐やら嫉妬やら何やら、要するにそれらは男性視点で作られているモノがほとんどだったのです。
 しかし、本作は異なります。それはまるで、女が女であることに理由が無いように「わたしたちは闘う。なぜならエンジェル=オンナだから!」の一点張りで突っ走ってみせます。


つまるところ『チャーリーズ・エンジェル』は、映画史上初(?)の「オンナが作った女が闘う映画」の誕生だったのです。
え? 監督のマックGは男だろ、だって?
ばっきゃろー! 本作のプロデューサーは、エンジェルの一員でもあるドリュー・バリモアその人であります。
ドラッグとアルコールによってドン底まで堕ち切ったドリュー・バリモアが、『ウェディング・シンガー』(98年/フランク・コラチ)で清純派女優として大復活を遂げたのは、まさに奇跡に他なりませんでした。
彼女はその後プロデューサーとして『25年目のキス』(99年/ラジャ・ゴズネル)を成功させ、そして『チャーリーズ・エンジェル』に製作費100億超をブチ込んでみせます。
周囲の誰もが口を揃えて「こんな映画がウケるはずがない」と反対していたそうですが、映画は見事に大ヒット。
大バクチに打って出て大勝利してみせた彼女のド根性に、全人類(或いは全オトコ)はひれ伏すしかありません。

ドリューが製作に就いたことで、『チャーリーズ・エンジェル』は非常にチャーミングな魅力を放つ作品になりました。
そこには、前述した従来の女性アクション映画における、血も無ければ怨念もありません。(故に女性ウケも良くヒット要因の一つと思われます)
あるのは美女と銃とカンフーと爆発。そしてエロです。

レザースーツ、マッサージ師、ベリーダンサー、レースメカニック、ヨーデル娘(!)と、エンジェルたちのコスプレ・オンパレードも大変素晴らしいのですが、それら全てのシーンで胸か尻を突き出してくるのだから、これはもう至福という言葉以外に賛辞が浮かびません。
極め付けは、爆風で吹き飛んだエンジェルたち3人の尻がフロントガラスを割るショットまでもが存在するのです。「柔らかくて丸いものの破壊力はすごい」という教訓をご教示してくださるとは、なんと偉大な映画でございましょうか。

超エロいのに純真で天然なキャメロン・ディアス、サム・ロックウェル扮するボンクラ男子がタイプなドリュー・バリモア、金髪白人至上主義を阻止するアジア代表ルーシー・リュー…さ、さ、最高か!
「オンナが作った女が闘う映画」は、何故か男子諸君の夢とリビドーが詰まったミラクルな作品として産声を上げてしまいました。
いや、オンナが作ったからこそ、か…。


エンジェルたちは一見不可能かと思われる任務を、明るく、楽しみながらこなしていきます。
その喜びの感情を持っているのは彼女たちだけではありません。
カラフルな色調と華麗なファッション、そして、キラキラと輝く海と晴天の青空を映し続ける、この「映画」自体が喜んでいるのです。

例えば、冒頭でボートに乗って登場するキャメロン・ディアスの姿は、まるで身体に金粉が降りかかっているかのように輝いています。さらに、実際に海で撮影したにも関わらず、わざとスクリーン・プロセスで撮影した合成映像のように見せているのです。
これらは『タイタニック』(97年/ジェームズ・キャメロン)でアカデミー撮影賞を受賞したラッセル・カーペンターの手腕によるものですが、要するに、狙ってウソっぽく撮っているのですね。

この映画的なケレンミが画面で炸裂する瞬間こそ、私は「映画を観ている」という事実を改めて意識することになり、それは同時に無意識的に、その幸福感と共に現実から「映画」の世界へと逃避を試みるのであります。
『チャーリーズ・エンジェル』は、そう言った映画的快楽に満ちており、活動写真本来の娯楽性を解放する作品だと思っています。


(恐らく、この文章が書き終えるまでの何処にも挿入させることが出来ず、話が横道に逸れて余談になるので括弧書きで記すのですが、この映画で"痩せ男"を演じたクリスピン・グローヴァーは本当に、本当に最高です。計算され尽くした不気味な煙草の吸い方ひとつからして、台詞が皆無でこの存在感はアッパレであります。ドリューから"抜き取った"髪の毛の匂いを嗅いで、あゝ幸せと、快感の表情を浮かべる姿も、オンナから見た「やだぁ、きもぉい」オトコの象徴として実に印象深い次第。クリスピン・グローヴァーと言えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年/ロバート・ゼメキス)の若い頃の父ちゃんではなく、「チャリエン」の痩せ男が最高だ!と、ここに豪語しておきます。…今、胸の中で「『ウィラード』(03年/グレン・モーガン)があるだろ」とつぶやいたそこのアナタ……『ウィラード』も最高に決まってるだろ! 当たり前だ!)


ところで、劇中でこんなやり取りがあります。
厳重なセキュリティ・システムのため、絶対に侵入出来ないと言われている部屋。
そこにエンジェルたちが任務として侵入しなくてはなりません。
依頼人のケリー・リンチがポツリ。「不可能だわ」
そんな彼女に、キャメロン・ディアスはこう答えます。
「面白そう」

これは、一見すると『ミッション:インポッシブル』(96年/ブライアン・デ・パルマ)のパロディ・ギャグに見えます。(冒頭で、黒人のマスクの下からドリューが登場するのも「M:I」ネタ)
しかしながら、この「面白そう」という台詞は、『チャーリーズ・エンジェル』という映画自体の個性を表しているし、同時に、ドリューやマックGを始めとするこの映画を創り上げたスタッフたちの姿勢もよく表している言葉だと思います。

マックGという監督は、常に滅茶苦茶テンションが高い監督として有名です。
彼の演技指導を見ていると、身振り手振りを加えて実際に大声で演じてみせたり、OKを出すときは「スゲー!今の最高だぜ!」と最大限に褒めちぎっています。
まるで、自分の大好きなTVシリーズの映画版を監督していいよと言われた、子どものように。

普通の監督ならば「いやあ、それは無理だろー」と逃げに走ることも、マックGという男は「それ超面白そうじゃん!やってみようぜ!」と笑顔で言ってみせます。
それはまるで、誰もが無謀な挑戦だと思っていた『チャーリーズ・エンジェル』を大成功させたドリューの精神にも通じるのではないでしょうか。
「やる」か「やらないか」なら、迷わず「やる」を選択した人々が作り上げた映画こそ『チャーリーズ・エンジェル』なのです。
そんな作り手の「面白そう」が沢山詰まった映画であるので、彼らの楽しさは観ている観客にも伝わざるを得ません。

『チャーリーズ・エンジェル』は、「面白い」映画である以上に「面白そう」の映画として存在します。
だからこそ、この映画は最高に「面白い」のです。


追伸1
ビル・マーレイ演じるボスレーという男の存在こそ、童貞からリア充まで、全ての男たちの象徴であり憧れでありますな。ということで、俺もボスレーになりたい!

追伸2
キャメロン・ディアスの吹き替えは藤原紀香でいいのか問題(笑)


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2015年3月12日木曜日

こんな俺に恋をさせてくれて 『ダーク・シャドウ』

『ダーク・シャドウ』(2012年/ティム・バートン監督)
【あらすじ】
200年ぶりに蘇ったら、元カノがめちゃくちゃ怒ってました。

【「ティム・バートン映画」】

『ダーク・シャドウ』のポスター・ヴィジュアルを初めて拝見した際に、私の心はいささか喜びに満ち溢れており、これはもしかしたら、久々に「ティム・バートン映画」が観れるのではないかしら!と、期待に胸を膨らませておりました。

テメェ、バートンが監督なんだからそりゃそうだろうがバーロウ、なんて文句を垂らされる前に注釈しますけれど、ここで記した「ティム・バートン映画」とは、言い換えれば「ティム・バートンらしさが感じられるティム・バートン監督作品」という意味を持ちます。
例えばソレは、『ビートルジュース』における支離滅裂なブラック・ユーモアであったり、『バットマン・リターンズ』におけるマイノリティへの悲哀に満ちた愛情であったり…と言うか、アレです、『アリス・イン・ワンダーランド』以外の作品のことなんです(ああ、言ってしまった)。

ゼロ年代のティム・バートンは、『ビッグ・フィッシュ』と『チャーリーとチョコレート工場』を通して「父親との和解」を描いてきました。
バートンにとって「父親との和解」は、幼少期のトラウマからの脱却として、いつかは乗り越えなくてはならない題材でした。
彼のフィルモグラフィを熟知している追っかけからすれば、そのテーマと対峙し、見事に成功してみせたこの試みに、我々は賞賛の拍手を送らなくてはなりません。
勿論、バートン・アディクトな私は両作品とも楽しく鑑賞出来ましたけれど、心は決して満腹感を得てはおらず、俺の見たいバートン映画はコレじゃないんすよと、どこか消化不良な感情も隠し切れず。

だからこそ、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』でのバートン節の復活には切実に感嘆したのを覚えています。
コチラも、ジョニデが白塗り顔面蒼白メイクで喉を掻っ切りまくる大傑作でして、今ここで、バートン×白塗りに間違いなし!と暴論を提示しようと思ったのですが、個人的に『アリス・イン・ワンダーランド』はその定義に当てはまらないと思考が導き出したので、この暴論は星の彼方へと葬り去ります。

【ドイツ表現主義的吸血鬼、バーナバス・コリンズ】

さて、要らぬ前口上を羅列してしまいましたけれど、結論、『ダーク・シャドウ』は紛れも無い「ティム・バートン映画」の傑作と言えます。
と言うか、私はこの映画が愛おしくて、愛しさと切なさと心強さに胸が引きちぎられそうなのです。

ポスターで顔面白塗りのキャスト陣が、劇中においてもちゃんと顔色が悪いこと、そして顔面蒼白な人しか登場しない(顔色の良い人は大体殺される)という、それだけで大いに素晴らしい映画でもあります。
いえ、小生、顔色が悪いフェチではありませんで、『カリガリ博士』だとか『吸血鬼ノスフェラトゥ』だとか、20世紀初頭のドイツ表現主義の匂いがプンプンしておるのが素晴らしいと賞賛している訳なのです。

中でも、200年ぶりに蘇ったら元カノにボコボコにされる吸血鬼バーナバス・コリンズを演じたジョニー・デップの演技が、まさにドイツ表現主義のソレでして、特殊メイクで6センチ伸びた長い指で催眠術を施す姿が実に華麗です。(ちなみに、この長い指はバートンのオリジナルアイデアで、撮影前のジョニデは「指なんて伸ばしたら色々と不便だからぜってーイヤ!」と反対していたそうです)
あと、棺から起き上がってあくびをした吸血鬼は恐らくバーナバスが映画史上初なので、これも可愛い発明です。

再度、私の勝手な暴論の一つだとご容赦願いたいのですが、どうやら私は、ジョニー・デップという俳優が好きでも無ければ、嫌いでも無いという感情を抱いておりまして。
カッコ書きするならば、ティム・バートン作品のジョニデは好きなんですけれど(笑)、他の出演作品は何と言いますか、支離滅裂に暴れ過ぎていると思っています。

加えて、彼をコントロール出来ている演出家はバートンくらいなのではないかとも感じています。
実際、『ダーク・シャドウ』におけるジョニデは、良い意味でおとなしく、正しく演出を受けている落ち着きが感じられます。
ここで述べている「落ち着き」というのは、例えば「いない、いない、ばあ!」とか「アッチョンブリケ!」的なスラップスティックな芝居プランでは無く、彼の言動や細かな動作、そして最も効果的に映される表情から派生する魅力を、演出家やキャメラマンを信頼して託している、という様子のことを意味します。

ひとえに、20年来の付き合いとなるバートンとジョニデのコンビの絆が成せる業かと思われますが、バーナバス・コリンズという(オリジナルがあれど)新たなるキャラクターを生み出した業績は大いに讃えたいと思います。
みんな、ハロウィンはバーナバスのコスプレをするといいと思いますよ!しないけど!

【エヴァ・グリーン主演のリベンジ・ムービー】

もはや、『ダーク・シャドウ』のナニモカモが愛おしくて仕方ないのですが、やはり特筆すべきは、魔女アンジェリークを演じたエヴァ・グリーンの熱演でしょう。

ちょち唐突ですが、私は爬虫類顔の女性があまり好みではありません。
何と言いますか、ヘビ顔って言うんでしょうか。だからエヴァ・グリーンって、特に好きな女優では無かったんです。オッパイでかいなーという印象ぐらいで(幼稚)。
ところが、『ダーク・シャドウ』を鑑賞してからは、んもう大好きになりましたよ。ファンです、ファン。兎にも角にも、エヴァ・グリーンがすんばらしい!エヴァ・グリーン最高傑作!という狂喜乱舞ぶりをお許しください。(余談ですが、『300 帝国の進撃』のバトル・セックスも最高で最高で最高過ぎたので、本気でエヴァ嬢は、テン年代映画ボンクラたちの女神になっていると思います)

言ってしまえば、私は『ダーク・シャドウ』が、バートンが悪意を込めて描き上げる、魔女アンジェリーク主演のドス黒逆恨みリベンジムービーだと思っています。
劇場で2回鑑賞してから、Blu-rayで既に7回は再見しているのですが(笑)、観るたびに、これはアンジェリークによるアンジェリークのためのアンジェリークの映画じゃないか!と、リンカーン大統領よろしく、完全に自己暗示に掛かっている状態なのです。
『ダークナイト』の主演がジョーカーであるのと同じ現象です。(※『ダークナイト』の主演はもちろんバットマ…いや、ジョーカーです!)

エヴァ・グリーンという女優は、こんなにも喜怒哀楽の表現が素晴らしい役者だったのかと感動しました。ニタリとした愛想笑いから、瞬時に冷徹な表情にシフト・チェンジが出来たり、バーナバスを見つめる失恋を覚悟したかのような悲哀の目つきが実に切ないです。

やはり印象的なのは彼女のラスト・カット。
あんな顔されちゃあ、ねえ…と男なら誰しも妥協を許すところを、本作のバートンはキッパリと言い切ります。
「ぜってー許さねえ!!!」
ひえー!ウソでしょ、これ本当にティム・バートンの映画かよ!
ただし、そこで提示される残酷なまでの回答こそ、バートンが完全に「大人」になってしまっていることを示唆しており、ファンにとっては嬉しい悲鳴なのも確かです。
『ダーク・シャドウ』は「愛されない者の愛」を絶望的に押し付ける、「大人」になったバートンからの、素晴らしく愛おしい仕返しなのです。

そう、もうここには、自分を愛してくれない世界への復讐をしていた『バットマン・リターンズ』のペンギン=ティム・バートンはいません。
冒頭に前述した『ビッグ・フィッシュ』、『チャーリーとチョコレート工場』を経て成長した彼が、『ダーク・シャドウ』で「家族」という題材を描くのは宿命的な行為だったと思います。
しかし、本作は何よりも、「父親」だとか「家族」だとかを否定していた、かつての自分自身への愛憎入り混じった仕返しなのではないでしょうか。
もしかすると、愛を求め、愛を憎み、愛されることのなかったアンジェリークは、バートン自身のことだったのかもしれません。

【ティム・バートンとリサ・マリー】


ところで、本作にはもう一つの見方があると思っています。

実は『ダーク・シャドウ』のアンジェリークは、明らかにリサ・マリーを彷彿とさせる風貌なのです。
アンジェリーク初見時は「何か誰かに似ている気がする…」とモヤモヤしていたのですが、中盤の舞踏会のシーン(T-REXが流れた直後にアリス・クーパー登場、というやるせないステージ)で、アンジェリークがコリンズ家に現れた際、全身に電撃がビビッと走りました。
彼女が身を包んだ真っ赤なドレスデザイン、やたらと強調される巨大な乳房からして、『マーズ・アタック!』の女火星人、リサ・マリーを思い出さずにはいられなかったのです。
リサ・マリー、何を隠そう、バートンの元恋人であります。
脳味噌スッカラカンな私、ようやく、そこで全てが繋がりました。
そうか、これはリサ・マリーへのリベンジムービーだったのか!

付き合っていた頃のティム・バートンとリサ・マリー。
見よ、これが童貞クンと巨乳のツーショット!
バートンくんはこの頃、「俺、ちょっとイケてるんちゃう?」と勘違いしていた。
ともすると、バートンが自身のフィルモグラフィ上で初めてセックス・シーンを描いたのも、彼女との情事に関する露悪的な描写なのか、はたまたセックスは最高だったけど結果的には最悪でしたという自虐ネタなのか、どちらにせよ、『ダーク・シャドウ』のアンジェリークは「リサ・マリー」として解釈してみても非常に面白く鑑賞出来ること間違いなしです。

自身の人生や生活が影響を及ぼすプロットは、バートンならではの作風だと感じますが、本作におけるその最たるシーンこそ、上記したバーナバスとアンジェリークのセックス・シーンです。
いや、正確にはモロ見せなセックスでは無いので「ラブシーン」と呼称した方が適正かもしれません。
ともかく、バートンのフィルモグラフィ上で、恐らく初めて描かれたセックスだったのではないでしょうか。

俺もこれぐらいのことはしとるわボケー!と露呈してるのかもしれませんが、何でしょう、なんで童貞コンプレックスって、いくつになってもセックスを自慢したがるのでしょうか(笑)
私としては、まさかティム・バートンにセックス自慢されるとは予想外でしたので大変楽しめたのですが、あのシークエンスはよく考えると切ないですよね。
結局は肉体にだけ欲情しているという意味合いなワケで、エヴァ・グリーンが胸の谷間を見せつけて誘惑したように、リサ・マリーのおっぱいからも逃げられなかったのかなあ…と無粋な思考が働いてしまいました。

これは私の偏見ですから、どうぞ視界に突入した文字列をすぐ様に排除してもらいたいのですが(じゃあ書くなよ)、私、ティム・バートンとリサ・マリーのセックスが想像できないんですよ(笑)
いや、「(笑)」を添付しましたけれど、割と本気なんです。
同様に、ヘレナ・ボナム=カーターとティム・バートンに関しても、全く。そんなこと考えるなって言われたらハイ、ソレマデヨなのですが、私には無理です。
本当に、全裸でまぐわう二人が想像できません。
それほどに、私にとってティム・バートンという映画作家は、セックスから離れている存在なんです。

故に、セックスから離れているからこそ、グラマラスな巨乳モデルであるリサ・マリーに惹かれてしまったとも思います。
二人の出逢いは91年のクラブだったらしいですから、どうせバートンが「俺、ゴジラが大好きでさ~でもこんな怪獣オタク、誰も好きになってくれないからさ~」なんて酔い潰れてつぶやいたら、おっぱいを巧みに揺らしながら「ウチもゴジラ超好きー!ウチはキングギドラがめっちゃ好きー!ってかティムも好きー!」とリサたんに言われてノックダウンしてしまったのでしょう。(※筆者の完全な妄想です)
ルックス、性格、話し方、趣味嗜好など、まさにTHE童貞なパーソナリティを持ったバートンが、巨乳でちょちサブカルチャーな美人モデルにイチコロされちゃうのは分からなくもありません。(情けない文章)

その後、リサ・マリーはバートン作品のミューズ(とは言っても脇役)として次々と彼の作品に出演しますが、約10年間の交際を経て破局となります。
実際、破局後にリサ・マリーはバートンに対して、今後の人生を金銭的にサポート出来るだけの多額な補償金を請求しています。
恐らくこの経験が、バートンにとってはかなりイタイ出来事だったのでしょう。

そして、そんな彼女へバートンからのリベンジが、あのアンジェリークに放ったバーナバスの言葉です。
「お前は誰からも愛されないし、誰かを愛することも出来ないから!!!」
バートンが自身の作品で、愛されない者を真正面から全否定してみせたの初めてかと思われます。
それでも、バートンが完全にアンジェリーク=リサ・マリーに憎悪を抱いているのではない証拠が、「心臓」のシーンです。
いくら大人へと成長したとは言えど、やはり愛されない者への優しい視線は忘れていないのがティム・バートンです。
結局、受け取らないという残酷さ。いや、受け取らなかったことが優しさなのか。
実にオトナな余韻を残す、ティム・バートンらしい名シーンだと感じました。

『ダーク・シャドウ』はリサ・マリーへのリベンジ・ムービーでもあり、同時に、そんな彼女に対して「それでも、ただの映画オタクだった、ただの童貞だった、こんなヘンテコな俺に恋をさせてくれてありがとう」とお礼を言っているような映画だと思っています。

【ティム・バートンとヘレナ・ボナム=カーター】

さて、『ダーク・シャドウ』を今語ることの意味は、ティム・バートンとヘレナ・ボナム=カーターが破局した時代だからこそ存在しているのだと信じております。
2014年初めには既に破局状態にあったこのカップルは、約13年の関係に終止符を打つことになりました。
今現在、ヘレナとタッグを組んだ監督作品は本作が最後となっています。

2012年当時、『ダーク・シャドウ』を劇場で鑑賞した私は、最愛の今カノの顔で幕を引くこの傑作に心酔してしまい、完全に童貞クンから卒業したオトナなバートンからのサプライズに歓喜したのをよく覚えています。
今となっては、その今カノも「元カノ」と化してしまい、この作品がバートンにとってより悲哀に満ちたフィルムになっていることは間違いありません。

しっかし、女が怖いのは、そういうことを言っても一ミリも振り向かず、むしろリサ・マリーの方がバートンへ「るせぇ!ヘレナとなんか別れちまえ!」と、まるで呪いでもかけたかのように怨念が伝わって、そしてそれが現実と化してしまったことでしょう。

そして今、この映画を観て新たに思うことは、あのラストカットの恐ろしさ。
目をカッ開いてキャメラを凝視するその表情は、まるでこんなことを訴えていたのかもしれません。
「あんた、アタシを何回殺したら気が済むワケ? 許すまじ!!!」

かつて恋人だったナンシー・アレンを映画内でぶっ殺しまくっていたブライアン・デ・パルマにこの映画を捧げます。


追伸1
リサ・マリーの最近の出演作が、ロブ・ゾンビの魔女狩りムービー『ロード・オブ・セイラム』というのも、魔女つながりとして何か意味深です。やっぱり魔女なんじゃないの、リサたん!

追伸2
と言うか、『アリス・イン・ワンダーランド』のアン・ハサウェイですらリサ・マリーかよ!って思いましたからね。顔の系統も同じだし、巨乳だし…と言うか、バートンどんだけ乳好きなんすか!

追伸3
絶対アリス・クーパーいらなかった!(ああ、言ってしまった・笑)


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2015年3月5日木曜日

灰とダイヤモンド 『幕が上がる』

『幕が上がる』(2015年/本広克行監督)
【あらすじ】
ももクロのメンバーが演劇をします。

【新たなるドリーマー映画の誕生】

映画のジャンルの一つに、「ドリーマー映画」と呼ばれるものがあると思います。……と、3秒前くらいに思い浮かんだ持論を勝手に書いているのですが、「ドリーマー映画」とは何ぞやと申しますと、直訳の通り「夢追い人」のハナシが描かれた映画のことであります。

「ドリーマー」或いは「夢追い人」とは、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』や『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』における「ドリーマー」と同等の意味でありまして、美しいモノ、面白いモノ、総じて「夢」を追い求める人々の通称名として、コレ、定義されております。

近年記憶に新しい作品ですと『風立ちぬ』や『モンスターズ・ユニバーシティ』も、ドリーマー映画の傑作だと言っても過言では無いでしょう。

さて、ももいろクローバーZさん(以下、ももクロ)主演の『幕が上がる』を鑑賞したのですが、これがドリーマー映画愛好家の私にとっては、もうアガる上がる幕が上がる、新たなドリーマー映画の誕生に喜びを隠し切れませんでした。
お世辞抜きに、傑作だと思っています。思っていますゼーット!(使い方、間違ってますか?・笑)

【モノノフでは無い目線から】

まず、前置きしておきたいことは、私はももクロのファン、通称「モノノフ」の皆さまに属されていないということです。
これは、何も自身がアンチ側であるという意味では無く、モノノフと呼称されるほどの資格を持たない、知ったかニワカ野郎であることの自己表明であります。

私のももクロに対するポジションとしましては、楽曲主義の身として、彼女たちの活動初期よりディスクを購入し、数枚のシングルと、2枚のアルバムは所有しています。
また、早見あかりさん脱退コンサートこと『中野サンプラザ大会』のDVDを観ながら、『あかりんへ贈る歌』を聴いて号泣できるレヴェルの感情は芽生えるに至りました。
コンサートだって一度も行ったことありませんし、なんでしょう、とにかくモノノフではないんですよね、ノフくらいなのかな?(これも使い方間違ってます?・笑)

つまり、何を述べたいかと言いますと、良い意味で、私はももクロへの特別な感情が皆無な状態で鑑賞した身だということです。
一人のモノノフとしてではなく、一人の映画ファンとして本作に感銘を受けたことを、改めてここに報告致します。

【アイドル映画ではなく、青春映画としての『幕が上がる』】

と、上記セクションで述べたように、本作が宿命的に背負っている「ももいろクローバーZの5人が主演の映画」という、良くも悪くもウリでありノイズである特性に関してですが、この一点で鑑賞を迷っている方がいらっしゃいましたら、次の一言を贈ります。「気にするなかれ」と。

私はこれを強く豪語したく、文章内で初めてこの言葉を使用しますけれど、要は『幕が上がる』は「アイドル映画」では断じて無い、ということです。
アイドルが主演にしてアイドル映画にあらずというのは何たることか、と疑問に思われるでしょうが、極論、本作は「青春映画」なのです。
そんでもって、何度も述べているように「ドリーマー映画」です。(コレ、定着しないですかねい?・笑)
故に、平田オリザ氏のワークショップから帰還したももクロの皆さんは、アイドルではなく「女優」として機能しているのが、青春映画として成立している最たる要因とも思えます。

付きましては、全国のアイドルファンの方々は、モノノフの皆さんが死ぬほど羨ましくて仕方ないと思います。
だって、自分の応援しているアイドルの主演映画がこのクオリティで、ちゃんとヒットも飛ばして、しかも私のように自称ファンでは無い人間をも取り込んでしまってるワケですから、そんなの至福の極みでありましょうに。
ほとんどのアイドル映画が低クオリティで失敗する中(いえ、違います!あなたが応援しているアイドルのことではありません!お願い殴らないで!い、痛い!)、ファン向けのイベント映画としてではなく、正真正銘の青春映画として勝負に出て勝っているのは、それこそ、多忙の中で平田オリザ氏のワークショップを受け続け、更に1ヵ月半の撮影スケジュールを空けて挑んだ、ももクロの皆さんによる努力の賜物なのではないでしょうか。

【アイドル性の封印】

『幕が上がる』を鑑賞して最も驚いたことは、ももクロの皆さんのアイドル性を意図的に「封印」して、そのままラストカットまで押し切ってしまったということです。

通常のアイドル映画は、被写体であるアイドルのポートレイト・ショットやサービス・ショットが多々あります。(そりゃそうです、ファンのために撮られているんだから)
ところが、『幕が上がる』は驚くほどに「ヒキ画」が多いのです。もちろん、顔のアップなど「ヨリ画」も存在しますが、前述したアイドル映画の文法におけるカット割りのバランスとは異なり、大変落ち着いて、カットが静かに進行していきます。
この静寂は、彼女たちの青春の美しさや輝きはもちろんのこと、何処となく不穏で憂鬱な雰囲気すら感じさせるのですが、それを真正面から受容して体現してみせる、ももクロという5人の才能に、素直に驚愕しました。

更に言えば、『幕が上がる』には、ほぼゼロと言っていいほど男目線が存在していません。
通常、コノ手の映画は、若手イケメン俳優が投入されてアイドルファンを激高させるものですが(笑)、本作には同世代間における異性の存在が完全に排除されているんですよね。
ムロツヨシさん演じる溝口先生というキャラクターもいますが、彼はヘナチョコの大人でしかなく、同世代の異性ではありません。
この辺は、敢えてそこに踏み切って成功してみせた『5つ数えれば君の夢』(山戸結希監督・アイドルグループ・東京女子流主演映画)という傑作もありましたが、本作には文字通りに「恋愛」のれの字は存在せず、あるのは高城れにさんのれの字だけであります。

「異性」や「恋愛」がノイズキャンセリングされた世界観の中で、等身大の「少女」を演じることが目的とされ、5人それぞれが本来の自分とは似て非なる役柄を演じるこが要求される。
そして、それを惜しげも無くこなしてしまう、ももクロという5人の少女たちの恐ろしさ。

つまり、アイドル性を封印することによって、逆にアイドル性を浮き彫りにさせてしまった、とでも賞賛するべきでしょうか。
これらはある意味で実験であり、勝負であり、賭けだったと思います。
それがちゃんと、成功してしまっているのだから。誠に、恐るべしです。

【ももいろクローバーZという5人の主演女優に関して】

5人全員が(お世辞抜きに)脱帽せざるを得ない名演を見せていらっしゃると思いますが、中でも特筆すべきなのは、百田夏菜子さんでしょう。

彼女だけは「視線」の芝居をしていたように感じられました。「何か」を見つめるとき、その「何か」以外のモノにも視線が動くのですが、その泳がし方が実に上手いです。
恐らく、平田オリザ氏の指導だと思われますが、百田さんは「視線の分散」と呼ばれる運動がかなり身についていらっしゃいます。
これは話し手の顔をじっと見つめるのではなく、敢えて視線を逸らして異なるモノに視線を送り心理状態を表す演技プランです。
百田さんは視線で、動揺も、喜びも、後悔も、優しさも、全て表現し切っていたと思います。

また、私的な想いで恐縮ですが、『幕が上がる』序盤における、普段の彼女からは想像できない(って、アタシ普段の彼女をよく知らないんですが・笑)、あの憂鬱で、ブルーで、冷め切ったくすんだ表情に、大変惹き付けられました。ああ、こんな顔もするのか、と。逆を言えば、こんな顔は見せないられないよな、ファンに対しては、とも思えてきまして。
百田さん演じるさおりは、笑顔の中で悩んでるいるのではなく、悩みの中で無理して笑ってるように見えるんですよ。
そして、この映画の中では、彼女のチャームポイントの「えくぼ」が、すこぶる痛々しく見えるんです。不安で仕方ないのに、悔しくて仕方ないのに、無理して笑っているようで。
だからこそ、葛藤し、徐々に本当の笑顔を見せ始めるさおりには感動しましたし、ファーストカットとラストカットでの彼女の表情の変化が見れただけでも、本作を鑑賞出来て良かったと感じられました。

重複しますが、他の4人の皆さんも非常に素晴らしかったです。
玉井詩織さん演じるユッコが機嫌が悪いのにスキップして去るところとか、有安杏果さん演じる中西さんが「わたし滑舌悪いし」って言っちゃうところとか、佐々木彩夏さん演じる明美ちゃんが百合っぽいところとか、高城れにさん演じるがるるがろうそくの灯を真似するところとか・・・それぞれの美点を挙げると切りがありません。

【玉井詩織さん付近での演出に関して】

百田さんに関して特筆しておいて何ですけれど、私、玉井さん関連のシーンで2つ印象的な演出がありました。

1つは、合宿中、観劇後の宿への帰り道のシーンです。部員たちは皆で仲良く並んで歩いているのですが、中西さんとのペアに不満気なユッコだけが、その群れから外れて、一人でトボトボと歩いています。それが丁度、ユッコを演じる玉井さんのイメージカラーである「黄色」の点字ブロックを境界にして、点字ブロックの左側(下手側)を部員たちが、右側(上手側)をユッコただ一人だけが歩いているのです。
このシーンは、時間にしても数十秒だったと記憶していますし、今のところ指摘されている方をお見受けしていないのですが、とにかく私はハッとさせられてしまい、なんて映画的な演出なんだと感心してしまいました。

もう1つは、地区大会前にユッコと中西さんが、屋上で小道具の塗装をするシーンです。ここで注目していただきたいのが、両者が手に持つペンキの色です。ユッコが「緑」のペンキを、中西さんが「黄色」のペンキを手に塗装をしています。モノノフの皆さんならば既にお気付きでしょが、実はそれぞれが相手のイメージカラーのペンキを手にしているワケです。中々うまく打ち解けなかった二人の距離が初めて近付くシーンですが、このような色による視覚的な「和解」が描かれていることに、ああ、これはちゃんと映画じゃないか、と改めて納得させられました。
もちろん、真に巧みな演出はこうして意識させないものではありますが、『幕が上がる』は、このような映画的な文法によって構築されていることも、非常に重要な作品だと思います。

余談ですが、ゆかりとユッコが共にシングルベッドで寝るシーンがありまして。
重ね重ね申し上げますが、アタシゃモノノフではありませんで、それでも、実は「ももたまい」という百田さんと玉井さんのオリジナル・ユニットは承知しておりまして。そう、このシチュエーションは、まさに名曲『シングルベッドはせまいのです』そのままじゃないかッ!!!!!
と、ビックリし過ぎて5人分のエクスクラメーションマークを付けてしまった程です。
あ、あと玉井さんがね、自転車に乗りながら「腹減ったー!」って叫ぶシーンがあるんですよ。おい、ソレ普段の玉井さんやないかい!と言うね。あれ、いいですよね(笑)

【個人的な本広監督への弁明】

これは一人の映画ファンとして述べますが、何がビックリって、やっぱり『幕が上がる』の監督が本広克行さんだってことだと思うんですよ(笑)
だって、あの『踊る』シリーズとか『少林少女』とか『曲がれスプーン』とか、テロみたいな映画を次々と投下していった人じゃないですか。(問題発言)
いや、ホントすいません。これdisじゃないんですよ。私なりに勇気を出して書いたつもりなので、お、お願いだから、許して下さい、日本テレビ様(笑)
当然、これは作品そのものへの評価であり、本広監督本人に対する人格の否定などは一切ありません。
要するに、本広監督に関しては、私の独断と偏見によって、全く擁護できない監督としてのレッテルを貼っておりました。
しかし、今回の『幕が上がる』の制作で、汚名返上と言いますか(謎の上から目線)、毎度毎度ボロカス文句を垂れてしまい申し訳ございませんでした、と謝罪したい所存です。
真に、本広監督の熱意は伝わりましたし、最高傑作だと思います。
もちろん、引き続き上記の3本は大嫌いですが(笑)、もし本広監督に対する少々の不安から迷っていらっしゃる方がおりましたら、またまた一言。「気にするなかれ」と。

【切符を手にした夢追い人と、夢追わせ人】

ところで、私が『幕が上がる』のもう一人の主人公として推したいのが、黒木華さん演じる吉岡先生です。

これ、彼女のベストアクトじゃないでしょうか。いや、大真面目に。
私、黒木さんとは一度直接お会いしたことがあるのですが、もうとてつもなく繊細で端整な顔つきでいらっしゃって、これ、超褒め言葉として言いますけれど、素晴らしく派手さの無い女優さんだと思うんですよね。いや、本当に褒めていてですね(笑)、地味だと言ってるワケじゃないんです。
だからこそ、『幕が上がる』における「肖像画」のシーンは、そのギャップに「この人、実はすごい人だったんだ・・・」と心酔するじゃないですか。あれは黒木さんみたいな女優じゃないと出来ません。

故に、本作を「ドリーマー映画」として成立させているのは、さゆりという「夢追い人」と、この吉岡先生という「夢追わせ人」の関係性にあると思われます。

劇中、志賀廣太郎さん扮する滝田先生による『銀河鉄道の夜』の授業が行われます。そこで彼は「光の速度で膨張する宇宙の中で、孤独や不安にくしゃみをするのではなく、それを自覚しつつも切符を手に持ち続け、宇宙の果てに向かい続けることの大切さ」を語ります。
これは、マンマこの映画の主題とも捉えることが出来る内容ですし、恐らく原作者である平田オリザ氏による『銀河鉄道の夜』の解釈かと考えられるのですが、この思想を象徴する存在こそが、他でもありません、吉岡先生なのです。

この映画が最終的に示すのは、誰もが「夢追い人」であり、また誰もが「夢追わせ人」であるという、芸術家にとっての「美しい業(カルマ)」の存在です。
夢を追うことはある意味で呪いであり、罪でもあり、その先には罰が待っているのかもしれません。もしかすると、その夢は達成されないのかもしれません。
それでも、切符を持ち続け、走り続けること、夢を追いかけることは美しい行為であると、芸術は教えてくれるはずです。
ももいろクローバーZというアイドルグループが、過酷な下積み時代を乗り越えて、目標であった紅白出場を成し遂げ、今こうして5人が主演する映画が完成したように。

まだ何も始まってすらいなかった夢追い人たちが駆け出した瞬間。ももクロの名曲『走れ!』が流れるのは、夢を追うことを後押しする、ドリーマーたちへの賛歌の曲として聞こえるからではないでしょうか。

映画が黒木華の作品へと化そうとした瞬間、かろうじて5人の物語として落ち着かせた手腕も見事でして、ドリーマー映画としてのカタルシス、浸るほどに味わえました。
そう、幕上げのカタルシス。
一度でも幕上げをしたことのある、もしくは幕上げを見たことのある人間には、それが「夢追い人」の理由となります。
逆を言えば、まだ一度も「幕」を上げたことの無い、或いは、自分は一生「幕」を上げないだろうと思っている、そういう人々のために、この映画はあるのだと思います。

【あなたは何で「夢」を追いかけるの?】

劇中、さおりが吉岡先生に「あなたはなんで演劇をやってるの?」と問われるシーンがあります。
さおりは、困った子どものような顔をして、言葉に詰まらせてしまいます。
そう、答えられません。
これはメタ的に見れば、ももいろクローバーZの百田夏菜子さん自身が「あなたはなんでアイドルやってるの?」と問われている構図とも読めます。

―さて、夢追い人の、ドリーマーの皆さん。
あなたには何と聞こえるでしょうか?
なんで映画やってるの? なんで音楽やってるの? なんで漫画やってるの? なんでお笑いやってるの? なんで、なんで、なんで。

あなたは答えられますか?
自分が好きなものを好きであることの証明、或いは、好きなものを好きでいられなくなっていることの嘆きを。
少なくとも、『幕が上がる』のさおりは、ラストでその答えに気付きます。

次に答える番は、そこのあなたです。
「あなたは何で、夢を追いかけるの?」
ももいろクローバーZは、もう既に、答えています。

『幕が上がる』は、夢追い人たちが人生の岐路に立たされた時、
幕を上げるか、上げないか、
そこで「幕を上げる」ことを選択した人間たちの物語です。


【灰とダイヤモンド】

最後に、約7000字にも及ぶ、この駄文・長文の文章に、ももいろクローバーZさんのある楽曲で幕を下ろしたく思います。

『灰とダイヤモンド』

これは、彼女たちが2013年に発表したセカンドアルバム『5TH DIMENSION』のラスト13曲目に収録された曲です。
作詞は後に『GOUNN』も手掛ける只野菜摘氏、作曲は久々の楽曲提供となる、ヒャダインこと前山田健一氏。
ももクロというアイドルグループが辿ってきた道のり、そしてこれから歩んでいくであろう未来、それらに想いを馳せながら、彼女たちの挑戦、失敗、成長を賛美した名曲だと思っています。

新宿バルト9、『幕が上がる』初日上映の帰り道、ふとこの曲が聴きたくなり、iPodを操作しました。

それはまるで、『幕が上がる』が掲げていた「切符を手にした者は前進するしかない」という主題そのものでもあり、同時に、アイドルというカルマの中で、人として、アーティストとして、常に新しい自分をアップデートしながら輝くこと、夢を追うことの素晴らしさを謳った曲でもありました。

『幕が上がる』のラスト、さおりは灰の中でダイヤモンドを見つけることが出来たのでしょうか。
いや、もしかすると、まだ灰まみれの世界に立っただけなのかもしれません。
それでも、彼女は「灰の中にダイヤモンドがある」ということを信じることが出来ました。
いつか必ず、ダイヤモンドを見つけるために。
彼女たちの夢を追いかける旅は、まだ始まったばかりです。

世界中、いや銀河中で私だけで構いませんが、『灰とダイヤモンド』こそ真に『幕が上がる』の主題歌としてふさわしい一曲であると、誠に勝手ながら提言させていただきまして、ここに幕を下ろしたく思います。


過去よりも高く翔ぶために
助走つけるために
何度も うまれかわってる
閃光(ヒカリ) 夜明け 輪廻 
灰のなかのダイヤモンド
本物以外さがせない
生命(いのち)燃やしつくすため
一緒に今を生きていく 
―ももいろクローバーZ 『灰とダイヤモンド』 


余計なお世話だバカヤロウな追伸1
やっぱり、カメオ出演でも宜しかったので、早見あかりさんとも共演してほしかったですね。先輩役とか、他校の演劇部員とかで良かったので、ちょち彼女とももクロさんの絡みが見たかったなぁ、という無い物ねだりです。

余計なお世話だバカヤロウな追伸2
「5人のメンバーの中で誰推しですか?」なんて質問をよく受けます。ことほど左様に、私はホントにももクロに関して明るくないので回答し兼ねるのですが、敢えて言いますけどね・・・いや、文中のバイブスから既にお察しされてる方もいらっしゃると思いますけれど(笑) ・・・あの、黄色の、玉井詩織さん、しおりん、ですよね? 玉井さん、彼女に目が行くことが多いと言うか・・・いや、仕方ないですよ、アタシ兄貴分なもので、ちょっぴり泣き虫で甘えん坊で食いしん坊で手足の長いショートカットの方に否応なく惹かれてしまうんですよ・・・なんて言うんですか、タマノフって言うんですか?(笑) いや、なんでもない。なんでもないです! 本当は、本当は早見あかりさんが好きです!(笑)


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