2015年3月22日日曜日

黙祷できれば、葬儀は終わる 『アメリカン・スナイパー』

『アメリカン・スナイパー』(2014年/クリント・イーストウッド監督)
【あらすじ】
アメリカ人スナイパーが困ります。

ユニクロで購入したオレンジ色のフリース姿で『アメリカン・スナイパー』を鑑賞したのですが、鑑賞後に感じたのは、なるべく黒を基調とした「正装」をして本作を観るべきだった、という感情でした。

なぜなら、『アメリカン・スナイパー』は「映画」で「葬儀」を行うからです。

映画内に葬儀の場面があるという意味ではありません。
この映画全編、スタートからフィニッシュまでの総てが「葬儀」なのです。

果たして、喪服を着用するべきだったとは皮肉にも思わないものの、ユニクロのオレンジ色のフリースで「葬儀」に参列するべきだったのカシラ?と、極めて個人的な余韻に浸っておりました。

以下、日本公開から日数が経過していること、及び本作が「実話」を基にしたフィクションであることを前提に記しますのでご容赦願います。(私的にはネタバレではないと思いますけれど、そういうのイヤだい!って方はブラウザバックを。ってかイーストウッドの新作がシネコンで掛かってるのに「DVDでいいや」と観に行かないヤツ!お前はもういい!金輪際、映画好きと自称するな!)

ということで、私は『アメリカン・スナイパー』という映画を観たというよりは、「故クリス・カイルさんの葬儀に参列した」という印象の方が強く残っています。

は?主人公死ぬのかよ!あんだテメェオチ言いやがって!と抜かす輩に対しては、ブラウザバッグの推薦文を読んでいないのかと疑問を抱くと共に、朝・夕の報道番組内においても、彼の死がニュースとして扱われていた事実を述べておきす。(ってか、いいから行け!劇場へ!)

勿論、アメリカの観客は「クリスが亡くなっていることが前提」で本作を鑑賞していますし、この結末にネタがバレたと文句を垂れるのは、少々的外れな気がしなくもありません。
と言うか、私の意見としましては、本作は初めからその「前提」ありきで観た方が、より楽しめるのではないかと思っています。
葬儀に参列するのだから、誰が亡くなったのかぐらいは既知していても良いのではないかと。

幼い頃より父親から「狼から羊たちを守る番犬になれ」と教育されたクリス・カイル。
彼は強い愛国心から海軍に志願し、後に特殊部隊ネイビー・シールズへ入隊します。
そして、抜群の腕を持つ狙撃手として、イラク戦争の最前線へと繰り出します。
よっしゃ、愛する祖国のために狼たちを倒しまくるぜ!と、彼がスコープを覗いた先には…
え、女? 子ども?
そう、実際にスコープの先に居た標的は、狼ではなくだったワケです。

もはや、この構成だけで心撃ち抜かれたと言いますか、現代アメリカが抱える病理を鋭くえぐってみせたと言えましょう。
もうブレッブレに揺れまくる、このヒロイズム感。
もはや喪失されつつあるアメリカのマッチョイズムや、真にデタラメだったイラク戦争への皮肉として、こんなにもストレートで巧みな描かれ方があったでしょうか。
さっすがイーストウッドです。

で、そういう点も踏まえて記しますが、一部で賛否両論騒がれている「戦争賛美映画」or「反戦映画」みたいな論争ですが、(これは定点カメラ視点の逃げ発言では無く)私には微塵も興味がありませんで、とても歯痒く、とても不毛に思えて仕方ありません。

前述した通り、私は本作を一つの「葬儀」として捉えており、喪主であるイーストウッド御大による、故クリス・カイルへの「映画」という名のレクイエムだと信じています。
「戦争」に対する様々なテーマ性が込められた作品なのは間違いありませんけれど…あのさあ、もっと気軽に楽しもうよ。映画なんだから。実は少年漫画みたいな燃えるハナシなんだから!(笑)

つまりは、ラストシークエンスからエンドロール以外は、故人がどのような人生を生きたのかを紹介するセクションであり、時にはユーモアも交えながら、その思い出や生き様を見ているような錯覚に陥ったのです。
ちょち矛盾しますけれど、「アイツはマジで伝説の男だったんだぜー」「いや、あの時はアイツも大変だったよなー」という、通夜で晩酌しながら語らう思い出話のようなノリだと思っています。

不謹慎ながら、随所の銃撃シーンには心からの興奮、高揚を隠し切れず、終始カッケーと笑みを浮かべて鑑賞しておりました。
敵サイドに、元オリンピック選手の狙撃手「ムスタファ」(電動ドリルに鳥肌)を配置するのなんて、まさに西部劇。
アフガニスタン(へと見事に変貌を遂げている、実際はモロッコ)で繰り広げられる銃撃戦の数々だけでも、本作を傑作足らしめる十二分な要素かと思っています。
本作がアンチ・カタルシスであるという論評を見聞きしましたが、後述するラストシークエンス以外は、私は全くそうは思いません。
正真正銘、『アメリカン・スナイパー』はエンターテイメントだと思いますし、イーストウッドだって、めちゃくちゃ楽しそうに現場で指揮をしていたはずだと想像してしまいます。
と言うか、そのイーストウッドのハイテンションな様子が、伝わってきませんか、スクリーンから!
砂嵐のように!(笑)

このテの作品を言語化しようとする際に、私たちの厄介な固定概念として「楽しんだら不謹慎だと思われる」みたいな感情ってあると思います。
「戦争を扱った題材だから、面白いとか楽しいとか思っては、それは人として不謹慎?」
断固として言えます。答えはノーだと。
なぜなら、これは「映画」だから。
それ以上でも、それ以下でもありません。

本作が実にイーストウッドらしいと言いますか、彼の優しさが心底感じられたのがラストシークエンスです。
私はてっきり、(実際の出来事と同様に)ラストはクリスが元軍人の男に殺害されるのかと思っていました。
いや、結果的に殺害はされるのですが、本作は「それ」を描きません。
クリスが殺害された事実はテロップで表され、代わりに映し出されるのは、彼の葬儀の記録映像です。

本来であれば、非常にエンタメとして機能を続けていた本作ですから、ラストシークエンスにおいても、クリスの死が描かれた方が物語性は増すかもしれません。
でも、葬式の終盤、ギャーギャー騒いでいるヤツはいないはずです。
何よりも、イーストウッドの配慮と言うか心意気が、ラスト直前に移された子どもたち、そしてラストカットを飾る妻、残された家族たちへ捧げられているように思えて、目頭が熱くなりました。
クリス・カイルは、アメリカン・スナイパーである以上に、一人の父親です。
そのことを私たちに再認識させて、この葬儀はラストランへと突入します。

極上のエンターテイメント体験をした後に待ち受けるのは、エンニオ・モリコーネ作『The Funeral』の旋律が乗る実際の記録映像。
そして、まるで「黙祷」を意味するかのように無音が続くエンドロール。
「映画」という名の「葬儀」は、我々観客の「黙祷」により終わりを迎えます。

『アメリカン・スナイパー』を観て、どよーんと落ち込んだ人も、熱く興奮した人も、戦争賛美なんか許せんと怒った人も、反戦映画として褒めちぎった人も、あらゆる総ての人々が、
最後にしっかりと「黙祷」なされたことを、心から願っております。
一つでも多くの、哀悼が届きますように。


ところで、この映画、鑑賞後に猛烈に思うことがあります。
音楽が欲しい!!
そう、あの無音のエンドロールの余韻から解放されると、途端に音楽が聴きたくなるのです。
だからこそ、私たちが家に帰って、するべき最善策は一つしかありません。
さあ、今すぐBlu-rayディスクをセットして、大音量のボリュームで鑑賞しましょう。
『ジャージー・ボーイズ』を。


追伸
「なぜ私に声を掛けたの?」「悲しそうだったから」
「バーから私を救ってくれたのね」「いや、君からバーを救ったのさ」
言いたい!!!(笑)


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【Twitter ID : @Griko_Hasuichi

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